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( WAKARE NO UTA )
別れの曲について

別れの曲
作詞:太田博 作曲:東風平恵位
- 一
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目に親し 相思樹並木
住きかえり 去りがたけれど
夢の如 とき年月の
行きにけん 後ぞくやしき
- 二
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学舎の 赤きいらかも
別れなば なつかしからん
吾が寮に 睦みし友よ
忘るるな 離り住むとも
- 三
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業なりて 巣立つよろこび
いや深き なげきぞこもる
いざさらば いとしの友よ
何時の日か 再び逢わん
- 四
-
微笑みて 吾等おくらん
すぎし日の 思い出秘めし
澄みまさる 明るきまみよ
すこやかに 幸多かれと
幸多かれと
※再生ボタンをクリックすると
「別れの曲」が流れます
「別れの曲」は、沖縄戦の前年、卒業を迎えるひめゆりの生徒たちのためにつくられました。
学校の特徴的な風景を詠んだ詩と、美しいメロディで、
生徒たちの間に瞬く間にひろがりました。
誰もが口ずさんで親しんでいた「別れの曲」は、
戦場の卒業式で歌われることはありませんでした。
ひめゆりの同窓生たちは、この歌を鎮魂歌として、
ひめゆりの塔の慰霊祭で大切に歌いつづけています。

アメリカ軍の上陸が確実な情勢となった1944(昭和19)年、ひめゆりの生徒たちは、来る日も来る日も陣地構築作業にかり出され、汗と泥にまみれていました。動員先の真和志村与儀(現在の那覇市与儀)では、太田博少尉が作業の指揮にあたっていました。
詩人だった太田少尉は、翌年3月に卒業を控えていた生徒たちに、巣立つ喜びと別れの淋しさをうたった「相思樹の歌」という詩を書いておくりました。その詩に、音楽教師の東風平恵位(こちんだけいい)が曲をつけ、卒業式の歌として、「別れの曲」(わかれのうた)とタイトルをつけて完成させました。
「別れの曲」には、校舎の赤瓦屋根や、学校のシンボルにもなっていた相思樹並木が描かれ、美しく親しみやすいメロディで、たちまち生徒の間に広まりました。

卒業式を目前にした1945(昭和20)3月23日、生徒たちは、南風原にあった沖縄陸軍病院に動員されました。艦砲がとどろくなか、南風原の三角兵舎であわただしく行われた卒業式では、「海ゆかば」を歌い、「別れの曲」が歌われることはありませんでした。卒業証書のない、父母の列席もない卒業式でした。卒業式では歌えなかったものの、生徒たちは、沖縄戦のさなかも壕の中で「別れの曲」を口ずさんでいました。
太田博少尉は、福島県郡山市出身で、郡山商業学校を卒業しました。1941(昭和16)年に千葉で入隊し、1944(昭和19)年8月に、野戦高射砲部隊の小隊長として沖縄へ転属しました。沖縄戦で亡くなりましたが、詳細は不明です。
東風平恵位先生は、宮古島の出身で、沖縄師範学校を卒業後、東京音楽学校(東京芸術大学の前身)で学びました。1943(昭和18)年10月に、沖縄師範学校女子部に赴任し、教師としての一歩を踏み出しました。沖縄戦で、沖縄陸軍病院第三外科壕に配属された生徒を引率し、ひめゆりの塔のガマで亡くなりました。


戦場の卒業式で歌えなかった「別れの曲」は、戦後、ひめゆりの塔の慰霊祭で歌われてきました。
卒業の巣立ちの別れを詠んだ歌詞は、死地へと旅立った学友や恩師との別れに重なります。
ひめゆりの同窓生たちは、厳しい戦争体験の記憶とともに、
学友や恩師との楽しかった思い出、亡くなった学友や恩師への鎮魂、平和への切実な願い…さまざまな思いをのせて、大切に歌い続けています。

LET’S SING
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